自由に生きたいと思った理由

私が自由に生きたいと思った理由

 

 

自由って素晴らしいよね!
自由を謳歌しようではないか!

 

 

 

そもそも、自由ってなんだろう?

 

私は、不自由な生活をずっとしてきた。

 

そこそこに幸せを感じながらも
不自由さはずっと感じてきた。

 

 

まず、生まれたところは選べない。
性別も自分では選べない。
親も選べない。

 

選択の自由は無かった訳だ。
コレが宿命というやつか…

 

けれども、それさえも
自分で選んできたのかも知れないと
最近はそういう説に妙に納得している。

 

 

 

 

 

幼い頃は、親という存在の影響は大きい。
身の回りの世話をしてくれる人、育ててくれる人が全てだからだ。

 

幼い時は親の言うことが全て正しい。
おかしいよと思っても反論できないでいた。

 

しかも、私の場合は6歳くらいの時両親が離婚した。
母親の方が家を出て行ったのである。
幼い私にとってコレは恐怖そのものだった。
父はお酒で荒れた

 

 

祖父叔母が同居していて面倒を見てくれたのと、
8つ違いの姉が居たこと、
父は仕事は真面目に行く公務員だったことなどが
まだしも救いだった。

 

 

しかし、最愛の人、一番安心できる人が
突然にいなくなる恐怖というのは、
幼い子供にとってどれほどの恐怖であっただろうか。
今考えただけでも可哀想で涙が出る。

 

毎夜、お酒を飲んできた後の父と
叔母のいい争いのバトルは凄まじかった。

 

それが嫌で嫌でたまらなかった。

 

 

私は幼かったが、私が寂しいとか
悲しいとか、お母さんはどこに行ったのかとか、
そんな事を聞くとみんなが悲しむのはわかっていたから、
何も言えなかった。

 

感情を出すことも控えていた。
子供だったのに気を使っていたのだ。

 

 

周りのみんなに気を使っていた。
姉は思春期だったため、私よりも可哀想だった。
多感な時期であり高校受験とも重なっていたため
大人たちはピリピリしていたのを覚えている。

 

人間って、
辛いことは忘れるように出来ているのだと思う。
その頃の記憶、小さい頃の母との記憶は
綺麗さっぱり削除されている。
写真で見て、こういう事もあったんだなぁ、と思うくらいである。

 

 

それからは父親が養育してくれたのだ。
実際にお金を稼いでてくれるのはで、
家で面倒を見てくれるのは叔母祖父である。

 

 

 

 

叔母も祖父も、それから父も、愛情深い人だったと思う。
そんなに苦労した覚えはない。

 

 

ご飯の支度や身の回りの世話は
叔母が全部やってくれたし、
お酒の量は多かったが、父は公務員だったし、
きちんと仕事をしてお金は家に入れてくれていたので

 

 

貧しい中でも
それなりに安定した幸せは感じながら育った。
けれども周りの人の顔色を伺って
自分の感情をなるべく殺して生きてきたために、

 

自分が思うように自由に生きるっていう事は
どうする事なのかサッパリ解らなかった。

 

 

自由も父の範囲内で受け取るもの、
周りの事を気にしてみんなが良いと言う範囲内で
受け取ると決めた私の自由。
違和感だらけだ。
本当の自由って、どうしたら受け取る事が出来るのだろうか?

 

 

 

そんな事を考えながらも、やがて結婚出産
とみんながたどる道を進んでいった。

 

ただ、みんなと違ったのは夫の家には家業があり
私はその家の嫁になったので、自ずとそれまでの自分が培ってきた
仕事は辞めなければならなかったということだ。

 

全部の意に従った。
結婚とはそう言うものだと思っていたからだ。
それからは、自分の意思とは裏腹に家業の手伝いに精進した。

 

 

とは言うものの、
仕事は男性の職場だったので私に出来る事は
簡単な事務仕事とお客さんへのお茶出し

 

それから最も私のするべき仕事は
住み込みの従業員さんや家族に対する家事全般を受け持つ事だ。

 

三度の食事の世話3時のお茶とおやつ洗濯、掃除、繕い物
夫が何人もいる感じで、それに子供の世話が入る。

 

はっきり言って、お手伝いさん状態だ。しかも無給の…

 

この、無給の…と言うところが問題だと思う。

 

夫は長男であと取り。
専従者給料だったため、他に勤めている人とは
比べものにならないほど給料は安く
私も長時間労働にもかかわらず、給料は出ない。

 

その時も、そんなものだと思っていた。
嫁に行くとはそう言うものだと
あまり深く考えずに、
そこでもそれなりの幸せを感じることはできた。

 

しかし、である。
そんなに健気に頑張っている私に、
こんなに純粋に夫と家族を支えている私に、
悲劇は起こった。

 

夫の保証人倒れによる自己破産という悲劇だ

 

 

何ひとつ悪い事はしていないじゃないいか、
夫の言う通り家族の事だけを考えて
自分を犠牲にして頑張って来たじゃないか、
神さま、これからどうやって
生きていけば良いんですか?

 

 

それから、よくよく今までの事を振り返って見た。
私はずっと依存して来た。
父に依存し、夫に依存し、夫の家業に依存して生きて来た。

 

だから、である。
自分でお金を稼ぐ力が無かったから
自由に選択する事が出来なかった。
いつでも誰かの了解を取らなければならなかった。

 

 

自分に経済力がなければ、

 

自分の本当に好きな事は出来ないのだ。

 

 

夫に頼って一生を平穏に過ごせる人が大半かもしれない。
でも、私はそうではなかった。
そうではなかったからこそ
自由とか自立ということにトコトンこだわるようになった。

 

本当の意味での自由、
誰に気兼ねすることもなく圧倒的な自由
手にしたいと思っている。
そうした上で家族や周りの人たちを愛すれば良いのだ。

 

自分を犠牲にする事は神さまは望んでいない。

 

それを痛感し、私は自由と幸せと豊かさを充分受け取ることに決めた。

 

 

 

 


幸せを感じる成幸者

幸せの定義

 

私は、圧倒的に自由に生きたいと思っている。

 

色々なところに行き、色々な人と会ってみたいので
もっとたくさん稼ぎたいとも思っている。
お金は必要だ。

 

仕事をするのは嫌いではないし、
人と話すことも嫌いではないので
今の仕事を楽しんで続けて行こうと思っている。
それをしていると、幸せを感じる。

 

幸せは自分で決めるものなので
主観的なものである。
自分は、今、世界一の幸せ者だ!
と思えば、その人は世界一の幸せ者になる。

 

では、成功者というのは、
どういった人を言うのだろうか?

 

 

成功とは、自分の主観だけではなく
ある程度、人からも認められなければならない。

 

うらやましがられる存在と言える。

 

しかし、その人達が自分でも成功者だと、
本当に幸せだと感じていなければ、
それはあまり意味が無いと思う。

 

 

成功者は、成幸者 とも言える。
幸せを感じている人だ。

 

成幸者になるためには、バランスが大事だと思う。

 

@ 健康
A 経済
B 人間関係
C 生きがい

 

 

この4つがバランス良く満たされて
成幸者と言えるのではないか、と思う。

 

 

私は今、こうして文章を書いている。
家にいて、文章を書くということを
仕事にしている人に憧れていた。

 

今は、ノマドワーカーって言うのだろうか

 

どこに居ても仕事ができるし
何と言っても、自分を表現する事ができるって素晴らしい!

 

私は、絵も好きだし音楽を聴くのも好きだが
絵や音楽で自分を表現することは苦手だ。

 

でも、文章は、自分で自分の世界を的確に表現することができる、
大変クリエイティブな作業だ。
やり甲斐があるし、後に残る物なので
自分の資産になるとも思っている。

 

このような事は、時間の余裕と
心の余裕がなくては出来ない。

 

少し前までは出来なかった。

 

 

心の余裕というのは、
つまりは、お金の自由や人間関係の自由に関係している。

 

毎日の仕事や雑事に追われているうちは
なかなか出来ない。
自分を表現したいとか、後に残る資産を作りたいとか
そんな事、考える余裕すらないのが実情だろう。

 

今は、パソコンと言う大変便利なものがある。
コレさえあれば、いくつだろうが、男だろうが女だろうが
誰だって資産を築くことができる。

 

実際、
スマホやアイパットの類は、便利すぎて驚く。
現代は、こんなに便利なものがあって
私たち、ほとんどがその恩恵にあずかれる。
なんて良い時代なのだろう。

 

 

知らない、というのは何かと損をしている。
いや、損をしているという事すら気づいていない。

 

便利なツールは色々ある。
気づいて、活用して行ったらいい。

 

しかし、そうは言っても、
この気づく、のも大事なのだが
気づいて腑に落とす事が、最も重要である。

 

しっかりと腑に落とし、芯から納得できていないと
行動が伴わないからだ。

 

 

何を隠そう、私も紆余曲折した方である。

 

生き方の要領が、とても悪かったと思う。
もっとすんなり、自分の思ったようになれたのにね。

 

だから、たくさんお伝えしたい事がある。

 

 

家族も大事だけれど
仕事も大事だけれど

 

もっと自由に、もっと楽しく自分の人生を生きる方法を
あなたにもお伝えしたいと思う。

 

 

女性は家の中心だ。
昔からそうだ。
女性は家族の太陽のような存在だと思う。

 

だからもっと、自由に生きて良い。
のびのびと家族の世話をしながら
好きな事をして、明るく生きていたら良い。

 

それが、みんなの望みでもある。

 

 

 

 

言霊の魔法

言葉の魔法を使う

 

 

まず、変えるべきは言葉である。

 

言葉言霊と言って魂が宿る。

 

「はじめに言葉ありき」である。

 

人間は頭の中で考える事も、言葉である。
思考も言葉から出来ている。

 

 

思考を変えると行動や習慣が変わり
それから、だんだん周りの状況が変わって来る。

 

それを
思考や行動から変えようとしてもなかなか難しい。
頭で考えた事は、感情には勝てないからである。

 

なので、何が変えやすいか、と言うと
言葉なのである。

 

まず、言葉だ。
言葉から変えると良い。

 

全部、良い言葉にしてみる。
置き換えてみるのだ。

 

 

そこに感情は伴っていなくて良い
最初はそう思えなくても良いのだ。

 

ありがとうありがとう、と言っているうちに
本当にありがたいなぁ、という気になってくるから。

 

 

腹が立ったり、イライラする人に対しても
良いところを見つけて「感謝しているよ」と言ってみる。

 

何度も言うようだが、そこに感情はなくても良い。
最初は言葉だけで良い。
本当は、感情を乗せて言えた方が良いのだが
それは後でいい。

 

感情が伴っていないと言ってはいけない、と思うと
言葉に出来なくなるからだ。

 

 

言霊の魔法だ。

 

言葉には魂が宿る。
感謝していると言うと、感謝するべき事が起きる。
ツイテル、と言うと、ツイテル事が起きる。

 

それを活用して行くのである。
相手のためではなく、あなたの為だ。

 

自分自身のために、言霊を使っていただきたい。

 

言霊は呪文と一緒だ。
テクマクマヤコンと一緒である。
便利なツールとして使っていただきたい。

 

 

信じられないかも知れないけれど
本当にそうなっている。
宇宙の法則だ。

 

特に、日本語の「ありがとうございます」には
英語の「thank you」と言うより
すごく高いエネルギーがある。

 

 

「ありがとうございます」というのは
有り難い事、
「あり得ないような素晴らしい事が起こりました」

 

と、毎回、神様にお礼を言っているのと同じなので
とてもエネルギーが高いそうである。

 

日本語は、他にも素晴らしい点が沢山ある。
他の国の言葉との違い、不思議な事だけど
本当によく出来ている。
祝詞ことばやカタカムナなど、
興味があれば、調べてみられると良い。

 

日本に生まれてきて、日本語を操ることができる事
それだけで本当に有り難い事なのである。

 

 

 


 
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