自己犠牲をやめる

 

 

神さまは自己犠牲を望んでいない。

 

 

これが、私が長年の経験から得た答えだ。

 

 

 

自己犠牲は正しい、と教えられた。

 

自分のことよりも、人のことを優先する。

 

 

 

 

人に喜ばれる、役に立つ人になりなさい。

 

正しい事をしていたら、きっと神様が見ていてくれる。

 

 

 

 

自己犠牲や謙遜は美徳だと思っていた

 

 

 

欲しがるません、勝つまでは…

 

 

一体、いつの時代の話なんだろう。

 

 

 

 

 

家族のため、夫のため、子供のために

 

自分のやりたい事はずっと我慢してきた。

 

自己主張をすることも無かった。

 

 

 

いや、我慢している、という感覚さえも

 

無かったのかもしれない。

 

 

 

 

当たり前のこと…

 

そう思っていた。

 

 

 

子供がいるんだから、私にはできない

 

夫がこう言うから、私にはできない

 

家族の世話があるから、私にはできない

 

 

 

 

女だから、できない

 

時間がないから、できない

 

お金が無いから、できない

 

 

 

 

今思えば、

 

〜だから出来なかったのではなく、

 

自己犠牲の精神が正しい、と思っていたから

 

できなかったのだ。

 

 

 

 

 

正しい事をしなければならない、

 

みんなが喜ぶ事をするのが正しい事だ。

 

 

正しい事をしていれば、そのうち皆んながわかってくれて

 

感謝してくれて、私は幸せになるはずだ…

 

 

 

 

幸せに…

 

 

 

ならない。

 

ちっとも…

 

 

 

 

それどころか、どんどん不幸になってくる、

 

と言う現実が用意されている。

 

 

 

正しいって何だろう?

 

一体誰が決めたんだろう?

 

 

 

 

「おかしいぞ」 と思う。

 

 

 

こんなに我慢して、

 

みんなの為に尽くしているのに…

 

こんな不幸が、私に降りかかる訳はないじゃないか、

 

こんな事は、ありえない。

 

 

 

 

神さま、どうしてですか?

 

私は、何か悪いことしましたか?

 

そんなに私がお嫌いですか?

 

 

と、

 

神様までも、攻めたくなる。

 

 

 

 

これはおかしい!

 

何かが間違っているんだ。

 

 

 

そして、たくさん考えた。

 

たくさん本も読んだ。

 

呼吸法もやった。瞑想もやった。

 

 

 

 

そして、気が付いた。

 

 

 

神さまは、自己犠牲は望んでいない

 

 

 

 

 

神さまは、「私」が幸せになる事を望んでいる。
「私」に、この世を楽しみなさい、と言っている

 

なぜなら我慢は恨みしか残らないからだ。

 

 

 

私ばっかり、こんなに我慢しているのに、

 

という恨みの気持ちだ。

 

 

 

 

我慢は、清々しくない。

 

我慢は、明るく軽い気分にはならない。

 

 

 

今、私は波動の事を勉強したので良くわかる。

 

 

 

 

暗くて重たい波動は、暗くて重たい現実を呼ぶ。

 

明るくて軽い波動は、明るくて軽い現実を呼ぶ。

 

 

 

 

私がいう 「神さま」 という存在は、

 

擬人化したひとりの神さまではない。

 

 

 

 

大宇宙の根源の、

 

絶対無限の創造主のことだ。

 

 

 

 

 

絶対無限の存在は、

 

究極に明るくて軽い波動なのだ。

 

それは、愛と光そのものである。

 

 

 

 

私という個人も、

 

創造主と一体で

 

その愛と光から生まれている。

 

 

 

創造主と分離する時に

 

私たちには「自由に体験する」

 

という事が与えられた。

 

 

 

 

どんな宇宙の存在も、

 

自由への介入は認められていない。

 

 

 

自由に体験していい。

 

どんなものになるのも自由だ。